勉強・アート

なべの話

ある集団が、狭い部屋でぎゅうぎゅうになりながら一つの鍋を囲むのは、確かに妙に儀式的な行為にも思える。

「東京の条件」share soup three weeks の話。

そもそも「鍋」は料理名ではない。
それはただの調理器具を指す名詞だ。
一般的に、素材や味付けに関係なく、土鍋を使った煮込み料理を広く「鍋」と呼ぶが、それだけでは具体的にどのような料理を示すのか明確ではない。言い換えれば、料理としての「鍋」は実際「鍋を使った何か」でしかなく、その中身はひどくぼんやりとしている。

しかし、いやそれゆえに、鍋ほど日本人が親しむものはない。
北海道から沖縄まで、子供から老人まで、家でもレストランでも、貧しくても富んでいても、家族といても一人でも、「冬だから」という理由だけで、みんな鍋をする。

よく考えてみると、「鍋を食べる」よりも「鍋をする」という言い回しを多く使うのは、それをただの一料理に還元されない、特別な行為として認識しているからだろう。つまり、食卓に乗った土鍋で何かを煮る、多くの場合集団でそれを囲み、みんなでつつきながら食べるという行為、そして、その行為に供される空間と時間が、「鍋(をする)」という言葉に内包される重要な要素としてある。

つまり「鍋」は調理器具でも料理名でもなく、行為であり空間であり時間である。

プロジェクトHPにおいて、「三週間鍋を続けると、どうなるだろうか?革命くらい起きるのではないか?復興などするのではないか?」とうたわれた妙に楽観的なコンセプト文への回答は、あとがきにおいて批評的になされる。
時に、集団が何らかの明確な目的を持って設ける、交流・交渉の場でもありえる鍋が、過去、何か大きな出来事の前夜やその裏で密やかに行われてきたことも想像にかたくない。例えば、戦国時代の武士達も、神風特攻隊の隊員も、連合赤軍の若者達も、東京電力の幹部達も、反原発のデモ隊も、一度は鍋を囲んだに違いない。そう考えると、せいぜい野菜や肉の水煮に過ぎない「鍋」が、その周りに醸成してしまったなにかによって、日本の歴史が動いていたとも考えられる。
東電の事故後の対応ではっきりしたのは、鍋で大きなことを決めたら大変なことになるということだと、このプロジェクトの作者はいう。どこまでいっても「鍋」的なコミュニケーションに頼る結果としてできる談合社会日本を批評するというのが彼のねらいであるらしい。

鍋による鍋批評。

10月あたま、今は共有作業場準備室となったある部屋に、鍋が設置された。
24時間×3週間、入れ替わり立ち代わり色々な人がそこにきて、ただ鍋をしつづける。その場の音声のみが、ustで生中継される。
場所は非公開。参加者は友達の紹介もしくは面接を経て決定される。

私はそのプロジェクトに少しだけ参加しながら、しかしある程度の距離を置いて、観客として見ていた。そこで見たものを以下に書く。これは全く公式のものではなく、個人的な感想でしかない。


料理としての鍋。
西洋のフルコースは、食前酒、アペタイザーから始まり、メインディッシュがあり、デザートで終わる。そこには順序があり、ヒエラルキーがある。
一方鍋にはそれがない。
始まりと終わりすらない。いつでも食材が入れられ、料理としていつまでも完成することがない。
すぐに満腹になることがないゆえに、だらだらと食べ続けることができる。
味を変えることも自由。
そういう意味で、これは料理とは呼べない。

鍋という行為、その時間、空間。
夕食時にやってきて楽しい話をし、適度に食べて飲み、終電間際で帰る、という行動をとった参加者が一番多かっただろう。
正味4時間。これが鍋の適正な利用時間だろう。
しかしこの鍋に限っては、504時間行われていた。

煮つまっては薄められる出汁、つがれつづけるアルコール、湿気を帯びた熱が籠れば、少し窓を開けてまた再開する。
ある程度お腹が膨らんだら、別の土鍋でお茶を煮て小休憩。
しかしその間に次の鍋が仕込まれている。
食事の形式としてすでに十分冗長な鍋を、一回の食事時間ではなく三週間という時間の枠内で継続するという極度に間延びしたこの行為は、もう食事とは呼べないけれど他に何と呼ぶべきか分からない。
だからただ「鍋」と呼ぶしかない。

常に「誰かが鍋をしつづけている」状態を作るために、誰かが拘束状態になっていた。
入れ替わり立ち代わり、あらゆる人が、火の番をし、灰汁を取り、掃除や洗い物をし、鍋の隣で寝た。
すべては無内容な「鍋」を維持するため。

昼間、他の人が授業や仕事に行っている時間にも、そこでは誰かが(たいてい一人か二人で)鍋をしている。ustには鍋の水面が写っているだけで、誰が何の話をしているのか、すぐには分からない。
始まりもクライマックスも終わりもない、冗長な食事と、冗長な会話。
そしてそれは全て断片としてしか鑑賞しえない。
504時間全ての話を聞いた人は誰ひとりとしていないと思う。

深夜、鍋の部屋にいる顔の見えない誰かのため息をust越しに聞きながら、PCを前に職場で仕事をする。自宅で食事をする。顔も名前も知らない、声だけ知っている誰かに共感したり、ともに無言で過ごすこともある。妙な距離感、共時性。
504時間という上演時間と、音声のみust中継という形式が、出演者と観客のこの不思議な関係性を作り出した。

その中心にあったのは、やはり無内容な「鍋」。
あいかわらずただ「鍋」でしかないもの。


最終日、三週間煮込み続けた出汁で作った雑炊はとてもおいしかった。
この出汁は、ありとあらゆる食材を包摂して、なお澄んでいた。
しかし、これはメンテナンスをする人がいたから可能だったのであって、実際、ただ何かを長く煮込めばおいしいスープができるというのは間違いだと分かった。

ちなみに、もつ焼小林のつけ麺のたれは60年つぎたしの煮汁らしい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

京都の収穫

大野一雄追悼で制作された、M氏バージョンのラ・アルヘンチーナ頌見る

とても良くて、本当に驚いた
きちんと、魂こめて踊ったのが伝わってくる
ここまでするか、と恐れ入る

というかなんだこれは
物まねやシミュレーションのように皮肉っぽいものや
何か新しいことしてやろうみたいな意図みたいなものは感じられなくて
同じことを一生懸命やってるだけなんだけど、そうすると違いが際立ってくる
新しいバージョンとしてのオリジナリティみたいなものをわざわざ探すことを最初からしないと
パーソナリティみたいなものがどうしようもなく見えてしまう

それが生々しいというかあまりに赤裸裸で
見ていて勝手に恥ずかしくなり、勝手に心配になってしまう


関係ないけど、大野一雄人形なるものがあるらしい

07_05_03_03_1

似てる…

| | コメント (0) | トラックバック (0)

13日の金曜日

少しだけ実家に帰っていた
群馬は、空気とか水とか花とか匂いとか色とかみずみずしくて、私はとても良いと思う

家族とも仲良くやっている
父との情報共有度がとても高い事に驚く
テレビを見て映画を見てあっというまに二日過ぎ、すんなり帰京

アールブリュット展@埼玉近美
ヘンリーダーガー展@ラフォーレミュージアム

学部のはじめの頃、絵を手じゃなくて頭で考え始めたくらいの時に見て、顔面パンチを食らったような衝撃を受けた
それは単純に、徐々に頭でっかちになりつつある自分へのアンチのように思えたから

今になって見たら、これらが持つ価値というのが、なんだかとても良く分かる気がした
自分が絵を描く立場から心理的に十分に離れた証拠だと思った

美術館に展示されるレベルの作品というのは、美的なクオリティは十分高い
これは、普通の作品でも一緒の事
(アールブリュットだからといって、「下手」とか「子供みたいな絵」とか、そういう事じゃない。)
プラス
性格的な事
まず、私たちが普通いまここの自分の行為を規定する為に依拠する大きな歴史を持たないという事の、想像を越える不安定さがある
そして初めて、代わりに自分自身を今ここだけで規定する為の身体的行為の中の
非合理な決めごと、法則、リズム、規則性ができる

彼らの合理/非合理と、私たちの合理/非合理の間には決定的なズレがある
だから(私たちにとって)非合理な法則に則って成立するイメージは、私たちの想像を越えて、裏切って、脇腹にパンチを食らわしてくる

成長した私は、オッケーオッケー、と平静を装って美術館を出たものの
いつのまにか脇腹に痣ができてたのか
次に別の美術館で見たコンセプチュアルな写真の展示なんてさっぱり面白くないと思ってしまった

こういう機会は定期的にあると、ついつい頭をもたげて歩いてるところにパンチをくれるので助かる

そんな午前を過ごしたあと、午後、「思想史の視覚化」などという
頭が1トンくらいになるものを考えはじめた
やはり私には歴史が必要で、
というかそうできるのだから、手を動かすのは本当にたまにで良い
パンツを脱ぐのは、それがたまにだから高揚するので、普段から素っ裸で歩いていても意味が無い
というバランス感覚のある人みたいにさっぱりと言えるようになりました

| | コメント (0) | トラックバック (0)

さいきんの本

6時間以上に及ぶMTGを終え、さすがに憔悴してしまった
今夏の展覧会案、春からごろごろと変わってやっと落ち着いた
地震後の切実な、切迫した感覚はもうない

案を考える作業を続けていて、だんだん自分のしたい事が分かってきた
これは個人的な閾を越えないので、自分だけでやれば良い
そのうちに、いやいや、近いうちにはじめる

Img_0561

今日は次の事に没入できそうにないので、最近アマゾンで買った『なんクリ』を読み始める
1981年出版、中古のすばらしい焼け具合
内容と形式の「ポストモダン」さを考えるとこの古色はとてもやるせない感じがするけれど、これも本の運命

しかしバブルってすごい
流行は巡るというけれど、バブル期のファッションだけはまた流行る事はないんじゃないかと思う

メタメタ推理小説、清涼院流水の『コズミック』も中古で買ってしまった
709頁、200円
すばらしいコスパ
でも読み切る暇はない


| | コメント (0) | トラックバック (0)

未来形過去

Rimg0171

Mさんは、「僕はいつも何かがやってくるのを待ってるんですよ」と言ってた
それはただぼーっとしてるわけじゃなくて、
その時のために備えて常に準備万端な状態にしておくという事
すべての過去は未来形

芸術は、いつどんな形で力を持つか予想がつかない
何十年も何百年も先になってやっと、という事もある
ものとして残すという事は、そういう可能性に対してオープンでいる事だ

このごろ、ものの見えかたはその時々の状況により変わるものだと実感する
だから、あれが好きとかこれは嫌いとか考えずとにかく沢山見ていると、予想外の出会いがあったりして本当に勉強になる

何をどう見ていいのかわからないという人
別になんだって良いと思う
ただ、きれいとか素敵とか、そういうのとは別の感情
例えば気持ち悪いとか違和感があるとか、怖いとかぞくぞくするとか悔しいとか悲しいとか、そういうのが生まれたら
それにはきっとちゃんと理由があるので
なんでそう思うんだろうと考えてみたら、案外自分が見えてくるかも

Fig: ヤノベケンジ<トラやん> 富山発電所美術館 2010

| | コメント (0) | トラックバック (0)

私の好きな人

1466004pimg

http://www.youtube.com/watch?v=S_oLCJIYOVU&feature=related

Regina Spektorと陽子さんは似ている
なんとなく、雰囲気が
たぶん、女の人の女の人っぽい所がつまってるんだと思う
ずっと女の人が絵や写真の被写体になってきた事には何も不思議はなくて
これからどんな社会になって誰が作り手になっても
ずっと女の人は被写体であり続けるんだろうし、それでいいと思う




                         fig. 荒木経惟『センチメンタルな旅・冬の旅』より

| | コメント (0) | トラックバック (0)

アマポーラアマポーラ

ダムタイプ

ニュース23内の映像で、抜粋ではあるんだけど
伝説的公演S/Nがちょっとだけ見れる事がわかりました

http://www.youtube.com/watch?v=8fpw6EYOEig&feature=related

S/Nは去年の六本木クロッシングで上映をしていて
私はそこではじめて全編見たんだけど、改めて感慨深いものがあります

色々色々ぐじゃぐじゃとした批判が演劇の枠組み内でなされてるっていうのは
PCばりばりの80年代っぽいなーみたいな、ちょっとひいた感じで見てしまうんだけど
それを飛び越えて、一人の人が自分の体の中から出してる言葉は断然重いです
命をかけて人前に出ている人というのは
もうちょっと、怖い

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ここ三日

がっつり満喫して帰ってきました、あいちとりえんなーれ&静岡
あいち、丸2日、約14時間程歩き回り片っ端から見まくってやりました
パフォーマンスのキャンセル待ちに座り込んで並んだり
深夜のぴかぴか光る名古屋城でカップルに囲まれながらかっぱえびせんを食べたりしました
全体としていいわるいとか、まぁ色々思うところはありますが
とりあえずやりきった感がある、今

静岡はクレマチスの丘という文化複合施設に行きました
そこにあるベルナールビュフェ美と、IZU PHOTO MUSEUMという所にいきたくて。
実は私静岡初上陸で、滞在は短かったのだけど、ほんとにいいとこ、って感じがしますね
山がもりもりとあって、でかくて、海があって、天気良くて、食べ物おいしくて、さわやかのんびりって感じです

美術館もとてもよかったです
良い環境に建ってる美術館はそれだけでかなり価値があると思うのだけど、ここは、それに加えて建築も展示もハイクオリティだし、ショップやら何やらの総合的なデザインも洗練されていて、手を抜かないなぁという感じでした

ちょっと山の上で、吊り橋があったり川があったり池があったりして、とってもさわやかな所なので、家族とかカップルとか良いだろうなぁと思います

とりえんなーれのついでに行った豊田市美も、高台にあるこれまたものすごくさわやかな所で、展示とよくマッチしてたな
そして豊田市はなんだか高崎に似ていました

地方にある美術館は、贅沢に土地を使っていて、自然に囲まれていて、季節を感じますね
東京はエキサイティングなものを沢山やってるけど、どこも街の中にぽこっとあって、季節とかを忘れがちです

まとめると、今回は行ってよかったな、と思います
瀬戸内は行けてないけど、どうかしら

どちらもまだ10月末までやってるので、機会があったら週末だけでもぜひ行ってみてね

| | コメント (0) | トラックバック (0)

夏の展覧会

おこんにちわ
気づいたらすっかり夏ど真ん中です
暑くて寝起きが最悪な毎日。

近頃は、このくそ暑い中展覧会もインターンもバイトもきちんと行ってます。
だからか、その他の時間はもっぱら室内派で、暇さえあればドラマを見てます。

IWGPを全話見返しまして
とても良いね、とても良い。
くどかんは夏向き。
サダヲも良い。
ちょっと悲しそうなところがたまらなくキュートです。

で、
久しぶりだし突然なのだけど、夏だから、厳選夏の展覧会報告です。
詳しい説明ははぶくので、紹介ではなくレビューとして見てね。

・もうすぐ終わる!「落合多武展 スパイの失敗とその登場」@ワタリウム

スパイが発見できたりできなかったりです。私は私なりに発見して、ちょっとにやりとしました。最初の方に行った方は、ぜひもう一度訪れてみて下さい。展示がちょくちょく変わるので、そこに新たな発見があるはず。
すいているはずだし、点数少ないのであまり気張らずに見れます。落合さんらしい繊細なドローイングへの期待とかそういうのは一旦置いといて、展示全体を見に行った方が良いです。

・まぁ〜いいかも、ね。「シャガールとロシアンアバンギャルド展」@芸美

シャガールが、ロシアンアバンギャルド(RA)と併置されます。シャガール作品は、代表作ががんがん来ているわけではないけど、点数は70点で十分、珍しい舞台衣装のデザイン画とかもあって、不足はないと思います。一時間のDVDが良い情報を与えてくれるし、シャガール好きな人にとっては良い展示でしょう。ただ、RAと併置される事については微妙。シャガールの線とRAの線とがうまく絡まってない感があって、ちょっと混乱する可能性があります。関連性とかを深く考えずに、一点一点の作品を見るつもりで行くと、満足感はあると思います。

・要注意。「佐藤雅彦監修これも自分とみとめざるをえない展」@ミッドタウン21_21

超・ハイテク個人的体験型展示。まず観客一人一人の身体測定から展示が始まるという、観客の身体や様々な属性によって作られていく展示です。始めはうきうきして、「こんなの初めてで楽しい!」とか思うのだけど、だんだんいらついてきます。なぜなら、待つから。一つの作品に対して一人の観客が対象で所要時間2〜3分みたいのが多いので、やたらと行列ができます。土日に行った場合、全部体験したら最低3時間位かかります(しかもほとんどが待ち時間)。ひと作品1時間待ちとかあって、もうディズニーランド状態。そしてひじょーーにカップルが多いので、待っている間楽しそうにしている周囲を見ると、もしかしたらここはディズニーランドかもしれない、と錯覚する程です。でも、作品体験自体にディズニーのようなエンターテインメント性があるわけではないので、「1時間待ってこれかよ、あーもう帰りたい」という気分になります。私も途中から怒りと疲れで作品をげんなりした目で見る事しかできなくなり、ちょっともったいなかったです。
一人で行くと、一人で待って、一人でやって、ちょっとほくそ笑むのをカップルに見られる感じになります。ディズニーランドに一人で行けないという方は、特に休日はお勧めしません。
展示自体は面白いので、興味のある方はぜひ平日の午前中とかに行ってみてください。

・行ってみたら結構良かった。「ネイチャーセンス展」@森美

自然を色んな角度から見て考えた3人のインスタレーションです。大きくて、動きがあって、ぐじぐじしてなくて、観客を巻き込む、なんだか夏休みっぽい展示だなぁと思いました。ぼけーーっとダムに波が起るのを眺めたり、地中に潜ったり、穴から地上に顔を出したり、山を登ったり、屋台の椅子に座って音楽を聞いたりできます。とにかく一つ一つの作品が大きいので点数は少ないし、全然疲れません。夜10時までやってるので、お祭りの帰りとか、仕事終わりちょっとリフレッシュしたい時とか、夏の夜を過ごすのにいいんじゃないかと思います。

とりあえず、ここまで。

PS
ついでながら、私がゼミで関わっているモバイルミュージアムプロジェクトというやつの展示替えをしました。赤坂インターシティでお仕事されてる方、お仕事で行かれる方は、ロビーにある謎の展示をちょっと見てみてくださいね。
9月のあたまにはインタビュー調査に行きますんで、通りかかったらその時はよろしく。

| | コメント (0)

K・Y氏

かの大御所先生とmtg
さっそく修論のためのチュートリか、と思って非常にびびる

さぁ、まだ何も見当もつかないんです
なんて本当のことを言うしかないのだけど
そんな事言ったら叱咤されるか呆れられるかどちらかだな
学校だからクビになるなんて事はなくても、もしかしたらシカトくらいされるかもしれない
やっぱり京都の方がのんびりな私には合ってたのかもしれない
あぁ、まーくんは今どうしてるかなぁ、いいなぁ
とか考えながら、だいたい一日くらい憂鬱な気持ちで過ごす

いざ会ってみると、彼はとても穏やかで優しくて
何も言ってないのにあと一年くらいじっくり考えてみたら、と言った
頭の回転のいい人と話すと、いくらしゃべっても自分の言葉が足りないという事が多いけど
たまに非常に少なくて済んでしまう事がある
それはそれで不安になってしまうのだけど

「君、体は丈夫?」「メンタル的にタフ?」「英語は喋れる?」「アルバイトはどれ位してるの?」とひとしきり質問を投げかけられた後は、彼の中で勝手に話が進んで
あれよあれとという間に、私は彼の助手の弟子(これは肩書きなのだろうか)という事になって
夏に瀬戸内であるアートフェスの手伝いをする感じになった

本当に権力のある人というのに接触したのはこれが初めてかも知れない
この人が指をちょっちょっと動かすだけで、国内外の色んな人や団体やお金が動く
困っていると懇願すれば少々のお金くらいはくれそうだ

定年まであと5年とは、貴重な時に居合わせたと思う
この恩恵をどこまで被れるかが私の課題となる
やっぱりこの大学でよかったのだと思う

チャリ通にもまぁまぁ慣れてきた
30分は切れないけれど、いつも思ったより早く着いたなぁと思う
でも目が痛いし足も痛い








| | コメント (0) | トラックバック (0)